宮川街歩き


   
宮川寒天蔵   板倉3階建て、土壁漆喰仕上げの建物。窓の形態は鉄板を外部にはね上げて、角材で固定する蔀戸が特徴的です。宮川「くらの会」の有志で整備・改装をし、御柱の貴重な資料を保存。観光客にも広く公開。その他、音楽会や講演会、またパーティー会場としても使用できるようになりました。
鈿女神社   鈿女神社は古事記や日本書紀に書かれている天照大神が天の岩戸に隠れた時、岩戸の前で舞を舞った女神で、後には猿田彦神と共に「道祖神」として祭られるようになりました。昭和八年当地の商業者が商売繁盛、家内安全、厄除け縁結び祈願のために、安曇の松川村より分社して以来地元宮川商業会がお守りしています。
貧乏神神社(丸井伊藤商店内)   貧乏神飛んでけー。笑うカドには福来る。味噌蔵諏訪分社
イリイチ寒天蔵   板倉4階建て、土壁漆喰仕上げの建物。いくつかの窓が漆喰で塗り込められているのが特徴的です。
増木寒天蔵   板倉3階建て、土壁漆喰仕上げの建物。壁の色が黄土色なのが特徴。色が塗られたのは戦時中といわれています。
松木寒天蔵   板倉4階建て、土壁漆喰仕上の建物。周辺には水路が流れています。
円通山宗湖寺   円通山宗湖寺は諏訪家中興の祖諏訪頼忠公(法名永明寺殿晃山宗湖大庵主)の菩提所であります。天文十一年惣領家諏訪頼重が武田氏によって滅ぼされて以来、雌伏四十年上社大祝職にあった頼忠公(頼重の従弟)は、密かに再興の機を窺って居りましたが、天正十年武田氏が天目山に滅び、織田信長も又本能寺の変に討滅されるや、いち早く兵を挙げ再び諏訪の地を旧領に復しました。しかし時勢の変遷は更に厳しく、やがて豊臣の治政となり、凡そ十年の間武州・上州と彼の地にあったのでありますが、慶長六年関ヶ原の戦功により、再び故国諏訪の地に移封となり、頼忠・頼水父子領民歓呼の裡に旧領に復帰したのであります。帰国後四年、頼忠既に齢七十一歳を閲みし、慶長十年八月二十一日その寿を全とうして卒去、永明寺(茅野市上原地籍、上原五山の一ツ)に葬られました。
 後寛永七年故あって永明寺は破却され、それ以後は頼岳寺境内に牌所として頼忠(宗湖庵)頼忠室(理昌院)が建立され後世に至ります。
木落し公園   上社山出しで木落としの場所となる「木落(おと)し公園」JR中央東線や市道の通称「御柱街道」、上川に囲まれた場所にあり、0・5ヘクタール。坂の長さは従来の17メートルから32メートルに延びたが、平均斜度は約26度でほぼ同じ。冬場はそり遊びなどが楽しめる。坂の途中に休憩所を新設した。

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